沈黙のコスト——国際男性デーに読み解く、製造業の心と社会の編み目

未来へのまなざし

希望という名の習慣

希望は、突然やってくるまぶしい光というよりも、習慣として少しずつ育てていく灯だと感じています。製造業の現場にできる小さな工夫は、実はたくさんあります。たとえば、日々のKY（危険予知）に「心のKY」を加えることです。リーダーが週替わりで、自分自身の「最近困ったこと」を1分だけ共有することも、相談のハードルを下げるきっかけになります。ラインのそばに、ひと言だけ書いて投函できる「一言カード」を置いておくこと。夜勤明けに短時間でも仮眠がとれるスペースを確保すること。産業医や保健師の巡回に「匿名の事前質問」を付けること。これらはどれも、損失回避の心理を「沈黙のコストを避ける方向」に向け直す試みだと言えます。

• 沈黙のコストを見える化する（欠勤・離職・不良率・再作業時間・ヒヤリハットの件数など）
• 声を出すリハーサルを用意する（相談文例のテンプレート・簡単なロールプレイ・匿名投稿の仕組みなど）
• 評価指標に「ヘルス・セーフティの実践」を組み込む
• 管理職が自分の弱さを共有する場を制度として守る
• 工程計画に「回復の余白」を明記する（マージンや突発対応枠をあらかじめ確保するなど）

こうした仕組みづくりを「働き方改革」として位置づける視点については、中小企業の働き方改革とメンタルヘルスの実践例が参考になります。工数やコストを抑えつつ、現場に根づく仕掛けのヒントを得ていただけます。

損失回避は決して悪者ではありません。向ける方向を少し変えれば、経営にとって最良の味方になります。「離職を防ぎたい」「不良を減らしたい」「事故を起こしたくない」という想いを、だからこそ「声を出す」「休む」「助けを呼ぶ」という行動につなげていくイメージです。「私もそうしたいです」と、胸のどこかで合意が生まれるようにしていきたいと感じます。

“変わらないもの”の中にある力

現場には、簡単には変わらないものもたくさんあります。朝の点呼、工具の重み、オイルの匂い、仲間の背中。その変わらなさは、心の足場になります。国際男性デーの問いである「自分らしい生き方」とは、何かを大きく変えることだけを意味しないのだと思います。変わらないことに、自分なりの意味を結び直していくことでもあります。「このために、私は今日もここにいる」と言える答えの中に、弱さが含まれていても良いのだと認めていくことです。強さの定義を、少し広げるのです。文化・心理・社会がひとつの文（ふみ）のようにつながっていくとき、現場に流れる時間の音色は静かに変わっていきます。

「苦難そのものではなく、意味が人を動かす。」

ヴィクトール・E・フランクル

意味は、誰かから配給されるものではありません。私たち自身が手を伸ばして、現場の中からすくい上げていくものだと感じます。製造業という「つくる」営みは、その最前線にあります。つくることが人を支え、支えることがつくる質を高めていきます。そう信じながら、雨上がりの光のように少しずつ、習慣を変えていくことが大切なのだと思います。

総括

国際男性デーの問いである「自分らしい生き方」と、製造業の現場。この二つの文脈は、静かに損失回避の心理で結ばれています。失いたくないものが多いからこそ、私たちはときに「言わない」という選択を取りがちです。しかし、沈黙のコストは目に見えない形で積み上がり、やがて離職や品質低下として跳ね返ってきます。だからこそ、現場の文化・習慣・制度を、少しずつ「言葉のほう」に傾けていく必要があります。安全第一の標語に、心の安全をしっかり重ねること。「私もそうです」と言える場を増やすこと。その積み重ねの先に、強さとやさしさが同じ意味を持つ現場が生まれていきます。

雨、光、声、記憶。五感すべてで現場を受けとめるとき、私たちは「今」を生きている実感を少しずつ取り戻していきます。自分らしさは孤立ではなく、つながりの中で形づくられていくものです。製造業の現場こそ、男性の健康やメンタルケアに早期に取り組むべきであるというメッセージは、そのまま企業の希望の青写真になります。沈黙を破ることは仲間を守ることであり、成果を守ることでもあります。雨上がりの路面に残る光の帯のように、細くとも確かな道が、たしかにここにあるのだと思います。

国際男性デーの背景や、「自分らしさ」をめぐる社会の変化については、国際協力NGOジョイセフによる国際男性デーの解説や、NHK「国際男性デー“自分らしい生き方”とは？」も参考になります。現場の取り組みと社会の流れを結びつける材料として、ご活用いただけますと幸いです。

付録：参考・出典・謝辞

出典：［国際男性デー “自分らしい生き方”とは？／NHK］（URL: https://news.web.nhk/newsweb/na/na-k10014981701000）

追加参考：
・国際協力NGOジョイセフ「国際男性デー（International Men’s Day）とは？」（URL: https://www.joicfp.or.jp/jpn/column/international-mens-day/）
・Daniel Kahneman, Amos Tversky, “Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk”（損失回避の概念）
・World Health Organization, “Mental health: strengthening our response”（「メンタルヘルスなくして健康なし」）
・C.G. Jung（引用は一般に流布する短句に基づいています）
・宮沢賢治『雨ニモマケズ』
・ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』ほか

謝辞：現場の声を寄せてくださった匿名の皆さま、そして日々目に見えない安全をつくり続けているすべての手に、深く敬意を表します。

（文・長井 理沙）