“夢の国”の値上げから学ぶ中小観光業の希少性と価格戦略

人の心に宿る揺らぎ

小さな違和感の正体

行列を目にしたとき、私たちはしばしば「きっと良いものなのだろう」と感じてしまいます。心理学では、これを社会的証明希少性ヒューリスティックと呼ぶことがあります。誰かが強く欲しているという事実は、私たちの欲望の輪郭をなぞり、形を与えてしまいます。列という視覚的な現象は、心の内側に「価値の予告編」を上映するように働きかけてきます。私自身も、並ぶ前から、すでに「手に入れたあとの満足」を先取りしてしまうことがあります。

しかし、希少性は柔らかな絹のようでありながら、ときとして目に見えない小さな棘も持っています。「限定」「予約」「抽選」「プレミアム」といった言葉は、希望をすくい上げる網であると同時に、こぼれ落ちてしまう人の悔しさもすくい取ってしまいます。行列が長ければ長いほど価値が高いと錯覚してしまうのは、人の脳が「努力の正当化」を好むからだとされています。時間やお金を投じたぶんだけ、体験はより色鮮やかに思い出されやすくなります。しかし、その体験全体が本当に豊かであったかどうかは、実は別の問題なのかもしれません。

「心の中で何かがずれた音がした」と感じる瞬間は、価値の記述が「アクセス」から「選別」へと静かに傾いたときなのだと思います。開かれた空間にいたはずが、いつの間にか区切られた部屋に移されたような感覚です。部屋の温度が1度下がったように感じられて、どこか言葉にしづらい居心地の変化だけが残ります。希少性は、私たちの自己物語に「選ばれた」という章を加える一方で、「選ばれなかった可能性」の影も濃くしてしまいます。光が強くなればなるほど、影が際立つように、これもまた心理の一つの等式なのだと感じます。

その痛みを言葉にするということ

希少性の設計は、体験の価値を高めてくれる一方で、どうしても「取りこぼし」を生み出してしまいます。私たちが胸の奥に抱える痛みの核は、単に「買えなかった」「行けなかった」という事実だけではありません。本当は、時間を共にするはずだった誰かと、同じ「物語の場」に立てなかったことにあります。たとえば、家族の事情で繁忙期を避けられないKさんは、抽選に落ちてしまった夜、子どもの寝息を聞きながら、窓の外を流れていく雲をしばらく見つめていたと話します。手に入らなかったのはチケットだけではなく、準備していた言葉や、予定していた抱擁、小さな驚きの共有といった「まだ生まれていない記憶」だったのかもしれないと感じたからです。

だからこそ、そこには言葉が必要になります。価格を上げるとき、予約枠を絞るとき、あるいは体験の形式を変えるとき、運営側が語るストーリーは、貨幣の顔にもう一つの面を刻んでくれます。たとえば「静けさを守るための制限」「安全のための間引き」「品質を保つための分散」など、理由の透明度が高いほど、感情の納得も得やすくなります。希少性は、ただの不足ではなく、「守るための余白」であると伝えられたとき、人は自分の小さな痛みをどこかにそっと置いて、前に進みやすくなります。私もそうでありたいと感じます。言葉は、心の温度を1度上げてくれる力を持っているのだと思います。

生きる理由がある者は、ほとんど如何なる苦難にも耐える

ニーチェ『偶像の黄昏』

小さな違和感を言葉にしていく作業は、体験の設計そのものを豊かにしてくれます。なぜなら、希少性の価値は「数の少なさ」ではなく「意味の濃さ」に宿るからです。意味の濃さは、運営者と来訪者のあいだにどれだけ物語が共有されているかによって決まっていきます。そこに、家族や友人、見知らぬ他者の記憶が幾重にも重なっていくとき、価値は単なる貨幣を超えた手触りを持つようになるのだと思います。

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