
“夢の国”の値上げから学ぶ中小観光業の希少性と価格戦略
社会と文化の狭間で
個人と集団の境界
社会の中で希少性は、ときに公共の秩序を守る杖のような役割を果たし、ときに排除の門にもなってしまいます。大企業のブランド転換が注目されるのは、そこに社会の空気が映り込んでいるからだと感じます。ニュースが「夢の国」の新しい舵取りについて語るとき、私たちは、その言葉のどこに「自分の物語」を読み込むのでしょうか。質の向上や体験の深化という言葉が並ぶとき、私たちは集団としての満足を優先するのか、それとも個人としてのアクセスを守るのかという揺れを、心のどこかで感じてしまいます。
観光は、個人の欲望と公共の資源が交差する場です。景観や静けさ、道や水や空気は、私たちが共有している「舞台装置」でもあります。この舞台の耐久性には限界があり、希少性の設計は、その限界を超えないための実務的な配慮でもあります。だからこそ、運営側は「制限」を通じて誰を守ろうとしているのかを、できるだけ明確に語る必要があります。自然を守るための入場制限なのか、スタッフの労働環境を守るための価格調整なのか、体験の質を守るための予約制なのか——守ろうとしている相手が見えてきたとき、私たちは「私たち」という輪郭を少し信じやすくなるのだと思います。
私は行列に並ぶ人びとの足元を見るのが好きです。靴紐の緩み具合、歩幅の違い、立ち方の癖。そこには、集団と個人の境界が静かに浮かび上がっています。列はひとつに見えますが、歩幅は一人ひとり違っています。社会の設計は、その歩幅の差にどれだけ寛容でいられるかで決まっていくのかもしれません。希少性の設定は、この歩幅の違いを前提にした「余白」をつくれるかどうかを試す試験紙のような役割を持っているように感じます。
文化が癒すもの/壊すもの

文化は、私たちの欲望の使い方をそっとしつけていく存在です。「季節限定」「地域限定」「数量限定」——こうした言葉は、文化が与える合図でもあります。合図があるからこそ、人は時間の流れのなかで自分の位置を確かめやすくなります。しかし、限定が強くなりすぎると、私たちはその地図の中で迷子になってしまいます。一方で、まったく限定がなければ、時間は平坦に過ぎていくだけになってしまいます。文化は、希少性という楽器を通して、私たちの感情にメロディーをつけているのだと思います。それはときに救いとなり、ときに焦りの伴奏にもなってしまいます。
観光業にとって、文化は単なる背景ではありません。来訪者が「この場所でしか感じられない」と思う瞬間は、地域の手仕事や言葉、風の匂い、味覚の陰影から立ち上がってきます。希少性とは、在庫の少なさだけでなく、そこに意味がどれだけ重なっているかでもあります。大企業のブランド転換から観光業が学べるのは、「限定」というラベルだけを売るのではなく、その「限定の理由」を丁寧に再編することです。理由が語られると、価格も批判も、やがては物語の一部になっていきます。それが文化の持つ治癒力なのだと、私は信じたいと思います。
「希少だから欲しい」の先へ。「どうして限るのか」を語れたとき、価格は物語になります。
観光と文化の関係性については、たとえば観光庁の公式サイトや、UNWTO(国連世界観光機関)の情報でも、多くの示唆が示されています。こうした一次情報とあわせて、当サイト内の地域と観光の関係性を扱う記事を読むことで、社長として自社の観光ビジネスをどのように設計し直すかを、より立体的に考えやすくなると感じます。
家族という鏡
親と子の距離
観光の現場は、家族の距離を可視化してくれる場所でもあります。ベビーカーを押す手の力加減、肩車をしたときの高さ、渡されたチケットをぎゅっと握りしめる小さな指先。親は「待つこと」を子どもに教え、子どもは「待った先にあるもの」を信じる術を少しずつ覚えていきます。希少性が強まるとき、親は「行けるかどうか」を心配し、子どもは「行けると信じていた時間」を信じようとします。そこで生まれる小さなズレは、多くの場合、沈黙として家族のなかに沈んでしまいます。誰も悪くないからこそ、言葉になりづらいのだと思います。そのとき、運営側の言葉が、その沈黙にそっと手を添えてくれることがあります。
私は、母が静かにため息をついた横顔を今でもよく覚えています。列の先に広がる光景は晴れやかだったのに、私たちの間には言葉にしない雲がただよっていました。「次は平日に来ようか」と母は言い、私はうなずきました。あのとき、母の言葉が救ってくれたのは、次の計画だけではなかったのだと今では思います。待った時間を意味あるものだとするための、小さなロープを結び直してくれたのだと感じます。家族はいつも、互いの手に結び直すロープをどこかで探しているのだと思います。

沈黙と対話のあいだ
価格や予約の変更は、家族の対話のテーマになりやすい事柄です。誰が決めたのか、なぜ変わったのか、私たちはどの順番でそれを受け取るのか。ここで重要になるのは、家族の中に「共有できる言葉遣い」をつくることだと感じます。「高くなったから無理だね」という一言ではなく、「大切に使うために回数を減らそうね」といった言い換えをすることもできます。「諦める」ではなく、「次の季節を楽しみに待とう」と言い直すこともできます。言葉は、沈黙と対話のあいだに橋をかけてくれる存在です。運営側が提供する情報の透明性は、その橋を支える丈夫な支柱になります。家族が自分たちの物語を守るために使える、実用的でやさしい言葉を渡してくれるからです。
雨にも負けず 風にも負けず
宮沢賢治『雨ニモマケズ』
こうした家族のコミュニケーションは、そのまま社内のコミュニケーション設計にも通じます。当サイトでは、「若手が辞めない組織づくり」や社長のコミュニケーション戦略について解説した記事も掲載しています。家族での言葉の選び方を意識することは、社員との対話や価格変更の社内説明にも生かせると考えています。















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