
絵本に戻る大人たち——心の余白と社会の設計、そしてデザインという静かな手仕事

雨に濡れた街で、私たちは小さな本を開き直します。大人に広がる絵本ブームを、文化と心理からていねいにほどき、中小企業の経営とクリエイティブ・デザインの現場に編み直していく物語の試みです。
【目次】
- 導入:心の風景と社会の断片
- 人の心に宿る揺らぎ
- 社会と文化の狭間で
- 家族という鏡
- 未来へのまなざし
- クリエイティブ・デザイン業への実務メモ
- 総括
- 付録:参考・出典・謝辞
雨は、街の音をひとつずつ包んでいきます。信号の切り替わる微かな機械の声、傘の骨が風を受けるかすかな軋み、誰かの足音が水たまりをわずかに跳ねる音が、少しずつ混ざり合っていきます。通りのショーウィンドウには光が柔らかく滲み、ガラス越しの世界が遠い記憶のスクリーンみたいに揺れて見えます。本屋の一角、背表紙がやさしい色で並ぶ棚の前に、立ち尽くす人の姿があります。ページをめくる音が雨と混ざり合い、過去から届く手紙のように胸の奥に滲んでくるのです。誰も急いでいない午後のように、時間は低く波打ちながら、私たちの肩を静かに撫でていきます。
光は、紙の白をそっと温めています。絵本の紙は少しざらりとしていて、指先に季節の温度を残します。輪郭の太い線は幼い日の記憶に似ていて、呼吸をゆっくりにしてくれます。壁の時計は今日の正確さを告げ続けますが、ページの中の時計は、朝と夕方と真夜中を、同じ高さで並べてくれます。現実の静けさが少し硬く感じられる日には、絵本の静けさに身を寄せたくなります。「私もそうだ」と思う人も多いでしょう。やわらかなイラストの横に置かれた短い言葉が、見失っていた自分の声の高さを、そっと思い出させてくれるのです。
そのとき、心の中で何かがずれた音がしたように感じます。大人になる過程で、私たちは「説明できること」ばかりを優先してきたのかもしれません。高速道路のようにまっすぐな理由、会議の議事録に残せる根拠、現実的な効率。けれど、窓の外で降り続く雨の粒は、どれひとつ同じ形ではなく、言語化できない揺らぎの集合体です。その粒に照らされながら読む絵本は、私たちの中の速度を一度落とし、心の底に沈んでいた泥の色を、ゆっくりと浮かび上がらせてくれます。部屋の温度が1度下がったような気がして、私は思わず膝にかけていたブランケットを引き寄せます。
誰かの笑い声が、階段の向こうからこぼれてきます。表紙の角がわずかに擦れていることに気づくと、そこには知らない誰かの時間が重なっているように感じられます。絵本は、読み継がれ、手渡されていきます。大人が絵本を開く光景は、どこかで社会の節目と共振しているようにも見えます。NHKの特集「大人に広がる絵本ブーム いったいなぜ?」が伝えるように、そっと手を伸ばす大人が増えています。「私もそうだ」と言える人が重なっていくほど、その安心は社会の空気にまで波及していくのかもしれません。
記憶は、棚の上に並ぶ絵本の色に似ているのかもしれません。赤は遠足の日の朝、青は祖母の家の縁側の影、黄色は夏祭りの屋台の灯り。ページをめくるたび、奥底の引き出しが小さな音を立てます。心の中で何かがたわむ音、言葉にできないまま残っていた感情の手触り。私たちは自分の中にある置き去りの部分に、指先でそっと触れているように感じます。説明ではなく、触れておくこと。判断ではなく、見守ること。大人になるほど、そのふたつが難しくなるのはなぜだろう、と考える人もいるでしょう。
そして、未来は静かなページの先にあります。雨が上がれば、街には新しい匂いが満ちていきます。光が水たまりで砕け、鳥の声が朝の空気を塗り替えます。絵本の最後のページを閉じる瞬間に、私たちは少しだけ軽くなったように感じます。心の奥で、さっきまで固かったものが柔らいでいるのです。たぶんそれは、「物語が私たちの内部を整理してくれた」という感覚に近いのでしょう。心は引き出しのように、区切れば片付きます、とは言い切れません。けれど、物語を通るとき、散らばった感情は自分の居場所を思い出します。その配置換えを、私たちは何度でもやり直せます。私はそう信じたいと思います。















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