
絵本に戻る大人たち——心の余白と社会の設計、そしてデザインという静かな手仕事
導入:心の風景と社会の断片

NHKは「大人に広がる絵本ブーム」というテーマを取り上げています。詳しい数字や傾向の細部にはここでは踏み込みませんが、書店や図書館、オンラインのコミュニティで、成人が絵本に再接続している光景は、確かに増えているように感じます。私たちの生活が説明と効率に傾くほど、意味の芯に触れる短い物語に、静かな支持が集まりやすくなるのは不思議ではありません。「私もそうだ」と頷く人が重なっていくほど、その安心は社会の空気にまで染み込んでいきます。
「大切なことは目に見えない」
サン=テグジュペリ『星の王子さま』
この短い一句が、今ほど強く心に届く時代はあまり多くないのかもしれません。視覚と数値で把握しきれない「生身」の部分が、経済や仕事の文脈からこぼれ落ちやすくなっているからです。絵本は、そのこぼれ落ちた部分に灯りを点けます。絵とことばの余白が、私たちの内部にある「まだ言葉にならないもの」に席を譲ってくれます。大人が絵本を手に取る行為は、単なる懐古ではなく、言語化以前の層へ降りていく心理的実践なのだと感じる人もいるでしょう。
経営という視点で見ると、この「静かなブーム」は単なる流行ではなく、生活者の感情の在りかが変わりつつあるシグナルでもあります。少子化が進み出版市場全体は縮小傾向にありながら、絵本市場は拡大し続けているという指摘もあります。たとえば、経済産業省のオウンドメディアでは、絵本市場がここ数年で拡大していることが紹介されています(METI Journal「少子化でも『絵本』は成長市場」)。「なぜ売れているか」ではなく「なぜ選ばれているか」を考えることが、クリエイティブ・デザイン業の経営にとって重要な問いになってきています。
人の心に宿る揺らぎ

心理学の古典は、心が言語だけでできていないことを教えてくれます。ユングが語ったように、無意識は象徴やイメージで語ります。絵本はその母語に近い存在です。輪郭は分かりやすく、余白は深く、ページ数は短いのに、長い物語よりもずっと遠くへ連れていってくれることがあります。「私もそうだ」と感じる読者が増えているのは、個々の内側で起きている小さな揺らぎが、社会のリズムと重なってきているからかもしれません。
小さな違和感の正体
朝のニュースを聞き流し、メールの返事を書き、タスク管理アプリを開閉する一日。どれも必要で、どれも「良い習慣」に見えます。それでも、夜になると、部屋の温度が1度下がったように感じる瞬間があります。手の届かないところに置いた小さなコップの水が、知らないうちに減っているような感覚です。心の中の「ひらがな」の部分が、片隅に押しやられていくとき、世界は少し冷たく映るのかもしれません。絵本は、そのひらがなを呼び戻してくれます。声に出して読むことが許してくれる速度で、私たちは自分の内部に帰っていくのです。
「遊ぶことは治療そのもの」
D. W. ウィニコット『遊ぶことと現実』
ウィニコットのこの指摘は、子どもだけではなく、大人にも静かに届きます。絵本を読む時間は、大人にとっての「遊ぶ」時間です。それは非生産的に見えますが、実際には感情の整理と回復を促す時間になっていきます。私たちは遊ばなければ、心の柔らかい部分の血が巡りにくくなります。絵本は短いからこそ、遊びに戻るハードルが低くなります。ページを開くという動作そのものが、身体のリズムを心理に橋渡ししてくれるのです。
その痛みを言葉にするということ
痛みはしばしば、言葉の外側にいます。だからこそ絵本は、痛みの輪郭を描くのが上手です。絵は喩であり、色は温度です。はっきり言わないからこそ伝わることがあります。大人が絵本に慰めを見出すとき、それは「自分の痛みが社会のどこかに置かれている」と感じる瞬間でもあります。これは、社長やクリエイターが「自分だけが抱えている」と思い込みがちな不安を、共同のテーマとして可視化する力でもあります。みんながやっているから安心というより、みんなが静かに耐えていることの輪郭が見えるから安心、という感覚に近いのかもしれません。















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