万博フレンチに学ぶ“選ばれる中小飲食店”──皿の上の伝承が売上とブランドを変える
ひと皿に宿る記憶は、国境も世代も越えて舌におちてくる物語です。万博の厨房で受け継がれているフレンチの作法を手がかりに、中小飲食店の社長が自店の経営に活かせる文化継承・ブランド・体験設計について、心と社会のあいだからていねいにひもといていきます。
※出典となるNHKの記事はこちらです：「“万博でフレンチを”日本人料理長が受け継ぐフランスの食文化」
【目次】
導入：心の風景と社会の断片
雨が細くなる朝、台所の窓に光が残像のように揺れているときがあります。湯気がカーテンの柄をやさしく歪ませ、包丁の刃先がまな板に落とす小さな打音が、遠くの駅の発車ベルと重なって聞こえるように感じることがあります。誰かの声がまだ眠っている食器棚に吸い込まれ、引き出しの中でスプーンが金の魚のように鳴る音がします。ゆっくりと立ち上る香りは、こちらの記憶のほうから歩いてやってきて、朝の体温と静かに混ざり合っていきます。私は塩をひとつまみ落としますが、その瞬間にだけ、昨日よりも少しだけ長く続く沈黙が流れているように感じます。
窓の外では濡れた街路樹に、鳩の羽根が灰色の雨粒を払っています。新聞やニュースサイトを開くと、世界のどこかの万博会場で日本人の料理長がフランスの食文化を受け継いでいることを、見出しが静かに伝えてくれます。彼が混ぜ合わせるソースの粘度に、別の国の季節が滑り込んでいく光景を想像します。スーツケースの中で眠る包丁は、彼の母国語と、新しく受け入れられた言語を一本の線に束ね直す筆のように見えるかもしれません。私は画面の中の写真に手を触れることはできませんが、ページから立ち上る音のない湯気を、ゆっくり吸い込むことはできると感じます。
そのとき、心の中で何かがずれたような音がすることがあります。たとえば、祖母の煮込みの香りとパリの厨房の香りが、覚えのない交差点で出会ってしまうような、微かなズレです。誰かが受け取るはずだった記憶の皿が、別の誰かのテーブルの中央にそっと置かれているようにも感じます。「自分もそうだ」と思う人もいるかもしれません。遠い会場の白いクロスの上に広がる光を眺めながら、自分の台所の天板の小さな傷に、別の時代の地図を重ね合わせてしまうような感覚を持つことがあります。
その瞬間、部屋の温度がほんの1度だけ下がったように感じることがあります。自分のうちにある「受け継ぐ」という言葉の輪郭が、少しだけ硬くなったように思えるからです。受け継ぐということは、単に真似をすることではありません。真似をしようとするときの手の震え、失敗を数える沈黙、そして「ここでいい」となかなか言えない時間の長さを抱えることに近い営みだと感じます。やがて雨がやみ、光は壁の角を滑り落ちて床で淡い湖のように広がっていきます。私はその湖に小石のように言葉を投げ入れ、その波紋の形をしばらくじっと見つめたくなります。
耳を澄ますと、遠い万博の厨房で鍋の縁が微かに歌っているように感じることがあります。国の名前の数だけ塩の加減があり、家の数だけ火の高さがあるのだと思います。彼の周りで働く人々の靴音が、自分の店の冷蔵庫のコンプレッサーの低い唸りと、どこか同じリズムで続いているようにも感じます。記憶はいつもそうして、現在と過去をゆっくりと混ぜ合わせ、未来に少しだけとろみをつけてくれるのだと思います。私は、あの会場の光が遠いはずなのに、自分の手の甲の産毛をほんのわずかに照らしていることに気づく瞬間があります。
やがて昼の影が短くなるころ、私は記事を閉じて、フライパンを火にかけます。油が薄く延びていく音は雨音によく似ていますが、その温度はまったく違います。フランスの食文化が受け継がれているという言葉の重さと、自分の台所で焼けていく卵の軽さが、同じ皿の縁に静かに並んでいるようです。「自分も同じだ」と思いながら、焦げ目の模様を地図の等高線のように眺めることがあります。食べることは、世界の断片を集め直す作業であり、その断片が音もなくかみ合う瞬間のために、私たちは毎日、火をつけているのだと感じます。
そして中小飲食店の社長自店のブランドや経営の物語「マグロ高騰の経済政策・制度改革・飲食業：価格設計と損失回避の実務」のように、価格や原材料だけでなく、「どんな物語を一緒に出すか」が、店の選ばれ方に影響している時代です。
人の心に宿る揺らぎ
小さな違和感の正体を知ることは、接客の資産になります
一口目の塩が少し強いと感じたとき、舌の反応だけでなく、心の奥で小さな扉が開くことがあります。祖父の口癖、修学旅行の食堂、初めての失恋の夜にすすったスープ……。違和感は、過去から届く封筒のように、表書きのないまま現在のテーブルにそっと置かれるのだと感じます。心理学者ユングは「人は象徴なしに生きられない」と述べたとされています。ひと皿は、言葉を持たない象徴の一つです。その象徴に触れるとき、心は自分の底面を確かめるように静かに震えているのかもしれません。
「自分もそうだ」と感じる人は、味の問題を超えて、場の温度や光の角度、器の重さにまで感受性が伸びていく経験を持っているのではないでしょうか。ウィニコットが語った「ほどよい母」という概念のように、ほどよい温度と静けさが、人の心に居場所をつくると言われています。強すぎる光は影を消してしまいますし、弱すぎる火は香りを呼びません。その中間にふと出会えた瞬間、私たちは「ここが私の席だ」と、誰に聞かせるでもなく心の中でつぶやきたくなります。
違和感には二つの種類があるように思います。ひとつは壊すための違和感で、もうひとつは癒すための違和感です。前者は座り慣れた椅子の脚を折ってしまいますが、後者は座面に新しい布を張り、同じ椅子にもう一度座れるようにしてくれます。飲食店で運ばれてきた見慣れない皿に心がざわついたとき、それは自分の「慣れ」がまとっている殻が、柔らかく破れる音かもしれません。文化人類学者のマリー・ダグラスは「食は分類の言語である」と述べています。分類のルールが更新されるとき、私たちは戸惑いますが、同時に世界の広さを少しだけ受け取っているのだと考えることもできます。
その痛みを言葉にすることは、店づくりの第一歩になります
「心の中で何かがずれた音がした」瞬間を、言葉にすることは簡単ではありません。しかし、言葉にすることは、痛みを薄めることではなく、その輪郭に光を当てる行為だと感じます。グルメの世界で有名なブリア＝サヴァランは、「何を食べるか言ってみなさい。あなたが何者かを言ってみせます」と記したとされています。私たちが何を食べてきたのか、そしてこれから何を食べたいのか。そこに宿る物語は、個人史と社会史の接点で静かに光ります。
飲食業の現場でも、同じことが起きているのではないでしょうか。たとえば、常連のKさんが席に着くときの「少しだけ浅い呼吸」、新しいメニューの告知に対するスタッフの「視線の泳ぎ」。そこに軽いひび割れを見る人もいるかもしれません。しかし、そのひびは崩壊の前触れではなく、光が入る窓にもなります。言葉にすれば、共有することができます。共有できれば、設計することができます。設計できれば、癒しは偶然ではなく再現可能なサービスになります。私は中小飲食店の社長がこうした「揺らぎ」に気づこうとする姿勢こそが、経営の大きな資産になると感じます。
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