発酵ブームの陰で原料リスク──農水産×中小企業社長の守り方

人の心に宿る揺らぎ

小さな違和感の正体

「売れる」という報せが、純粋な喜びだけで満たされない日があります。「私もそうだ」と頷く社長も多いのではないでしょうか。KahnemanとTverskyが示した「損失回避」は、「失う痛みは、同じだけ得る喜びより大きく感じられる」という心の傾きを指します。利益が増える期待よりも、「明日の仕込みができなくなるかもしれない」という不安が、生活の呼吸を浅くしてしまいます。カレンダーに記入された出荷予定の赤い丸は、やさしい灯りにも、警告灯にも見える瞬間があります。

「損失は利益よりも大きく感じられる」

Daniel Kahneman & Amos Tversky(Prospect Theory)

心理のレンズを少しだけ斜めに傾けて見直すと、その違和感ははっきりとした輪郭を持ちはじめます。私たちは、日々の暮らしと経営を守るために、無意識のうちに「危険の気配」を先読みしています。農業と水産業の現場では、とくにその感覚が敏感になります。天気図の色、海の匂い、流通の途切れ、仕入値の小さな変動——そうした微細な変化が、味噌の表面に浮かぶ薄い白い膜のように、不安の気配を覆っていきます。言葉にならないままの違和感は、やがて「備えなければ」という行動に変わります。身体と感覚は、数字より早く異変を察知しているのだといえます。

その痛みを言葉にするということ

「大丈夫です」と「本当は大変です」の間には、しばしば沈黙が横たわります。Kさんは、仕入先からの電話を切ったあと、倉の扉にそっと手を置いたと話してくれます。木は冷たく、それでいて押し返すような弾力を持っていました。心の中で何かがずれたような音は、次第に「数字」へと変換されていきます。入荷予定、在庫量、製造リードタイム。しかし、数字に変えがたい痛みがあります。それは「この味を待っている人がいる」という時間の重さです。

その痛みを言葉にすると、「失わせてしまうかもしれない」という責任の輪郭が見えてきます。「私も同じように感じます」と言いたくなる社長もいるでしょう。心理療法の文脈では、痛みを言葉にすることは、すでに「ケア」の一歩だとされています。ナラティヴ(物語)をつくり直すことで、現実そのものを変えられなくても、現実への向き合い方に手を添えることができるのです。被害想像の渦から一歩外に出て、「何を失いたくないのか」「何をすぐ守れるのか」を分けていくことは、経営の現場でも有効な整理方法になります。

「守りたい味は、守りたい顔の数だけ温度があります。」

言葉は、心の早すぎるリズムを落ち着かせるメトロノームのような役割を果たします。たとえ状況がすぐには変わらなくても、私たちの「態度」と「段取り」は変えられます。それは、小さくとも確かな希望のはじまりです。発酵食品を扱う中小企業の社長にとっても、「何が一番怖いのか」「どこまでなら許容できるのか」を言葉にすることは、経営判断の精度を高める第一歩だと言えます。

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