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高校野球でリプレー検証「導入方針」 春夏の甲子園と明治神宮大会で ― 黒田悠真の視点

成功事例:あの日、彼らが掴んだ希望

ここに描くのは、僕がこれまでの取材で出会った複数の物語を編み合わせた“複合的な情景”だ。北の小さな公立校。夏の地方大会準決勝、最終回二死満塁、打球は三遊間の深いところへ転がった。三塁手がダイビング、立ち上がって送球。スパイクの先が一塁ベースに触れる瞬間、白球が一塁手のミットを叩いた。アウトのコール。試合終了。スタンドは歓喜と落胆で二分された。僕はカメラマンの背後で、ピントの合っていない写真を見た。彼らは泣かなかった。ベンチに整列した顔は、むしろ澄んでいた。だが、帰りのバスで主将がぽつりと言った。「あの一瞬、どうだったんだろう」

もし、あの場面にリプレー検証があったら。結果は同じかもしれない。アウトはアウトのままかもしれない。それでも、あの主将の言葉には別の温度が宿ったはずだ。「確認できた。悔しいけど、次に行こう」。納得は、次の挑戦へ踏み出す筋肉になる。努力は、報われる保証がない。その不確かさを前提にしながら、それでもなぜ僕らは走るのか。たぐり寄せた一瞬の事実が、自分の努力が正しく評価されたという手応えに変わるからだ。高校野球の大舞台は、努力の仕上げを競う場所であると同時に、努力の過程を社会が見守る場でもある。検証という儀式は、その見守り方を整えてくれる。

別の物語。西の強豪校が攻める七回、スクイズの場面でバントは小さく転がり、捕手が猛然とホームに突っ込んだ走者へタッチ。審判の手はアウト。ベンチの温度が一段上がり、互いの視線が鋭く交差する。そこに検証のジェスチャーが入る。映像は、捕手のミットとランナーのスパイクが、ほぼ同時にホームベースの白をかすめる瞬間を捉えていた。角度が変わるごとに、場内の呼吸の色が変わる。最終的にコールは覆らなかった。けれど、敵味方のスタンドに広がった拍手は、同じリズムだった。あの拍手は、スポーツの信頼を取り戻す音だ。勝ったチームも、負けたチームも、前を向ける。そういう空気が、たしかに生まれる。

誤解をほどくのは、誰かを責める言葉ではない。事実にそっと光を当てることだ。

現場で学んだ、納得のつくり方

技術は冷たいものではない。冷静であることと、冷淡であることは違う。映像の前に並ぶ若い背中は、むしろ温かい。肩に置かれた手の重み、息を合わせるための沈黙。そこに映っているのは、人間の努力の軌跡だ。僕は、映像という共同の記憶が、チームをまたひとつ強くすることを信じている。リプレー検証は、挑戦を無傷にする魔法ではない。傷つくから、強くなる。泣くから、言葉が生まれる。事実に寄り添うから、希望が芽吹く。そうやって、彼らは大人になっていく。球場を出た夕暮れ、風が汗を冷やす瞬間、確かに胸のなかに残るものがある。

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