戦後80年とクリエイティブ業──中小企業のブランド戦略をどう変えるか

家族という鏡

親と子の距離

戦後80年は、家族の世代交代の時間でもあります。祖父母の記憶が物語として語られ、親の記憶が生活の工夫に置き換えられ、子の記憶が新しい規範をつくっていきます。家族は、社会に先立つもっとも小さな文化装置だといえます。親と子の距離は、常に揺れ動いています。近すぎれば息苦しく、遠すぎれば寒く感じられます。Kさんは、小学生の娘さんに「どうして仕事をしているの?」と聞かれたとき、「誰かの朝を少しだけ楽にするためです」と答えたそうです。その返事を娘さんがどのように受け止めたのかは分かりません。しかし、彼はその夜、いつもより深く眠れたと笑いました。言葉は、相手に届く前に自分に戻ってくるのだと感じさせられるエピソードです。

ウィニコットは「親は完璧でなくてよい」と語りました。ほどよい不完全さが、子どもに世界の余白を教えるからだといいます。企業もまた、ほどよい不完全さを見せることができるでしょうか。言い換えれば、「修正可能であること」を価値として提示できるかどうかです。「完成まで黙る」のではなく、「途中を見せて招き入れる」。それは、家族の食卓で味見を頼む所作に似ています。味見を頼まれた側は、消費者から参加者へと変わります。家族は参加の練習を提供し、社会へ送り出します。クリエイティブの現場は、その練習の延長線上にあるといえるのではないでしょうか。

沈黙と対話のあいだ

沈黙は、暴力にも優しさにもなり得ます。戦後を語らない家族の沈黙は、傷を癒やす包帯だったかもしれませんし、声を奪う口枷だったかもしれません。対話を始めるタイミングは、いつでも難しいものです。T氏は、祖母の手紙を展示に使うかどうか、最後までためらっていました。「私のための記憶と、社会のための記憶は、同じではない気がします」と彼は言います。最終的に彼は、祖母の手紙を「触れられない展示」にしました。透明な板の向こうで、読めないまま、ただ在る。その在り方が、来場者の胸に静かな問いを置くことを、私は信じたいと思います。沈黙は、言葉の対岸にある場として、意識的に設計していくことができるのだと思います。

「沈黙にも、固有の言葉があります」

吉本隆明

こうした家族や記憶の扱いは、子どもの才能の伸ばし方を社員育成に応用する視点(※内部リンク:実際のURLに差し替えてください)とも通じています。家庭というもっとも身近な場での対話や沈黙の扱い方が、そのまま組織のコミュニケーション文化や、社長と社員の距離感に反映されることが多いからです。戦後80年という時間の中で、家族が引き受けてきた沈黙と対話のバランスを学ぶことは、これからの企業経営にとっても重要なヒントになると感じます。

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