
高校野球、7回制の地鳴りーー最悪を避ける勇気と、勝ちたい心のあいだで
2028年センバツへ、7回制が動き出した。最悪を避ける勇気と、勝ちたい心。その狭間で揺れる現場を、汗と呼吸まで追った。倒れないために変えるのか、変わらないために倒れるのか。土の匂い、金属音、祈り。答えは、もうグラウンドに落ちている。
- 導入:挑戦の瞬間、心が震える
- 現状分析:努力の裏にある見えない物語
- 成功事例:あの日、彼らが掴んだ希望
- 分析:チームと地域が生む相乗効果
- 提言:挑戦を支える社会の力
- 展望:スポーツがつなぐ未来
- 結語:希望のバトンを次世代へ
- 付録:参考・出典
導入:挑戦の瞬間、心が震える
白線はまだ乾いていなかった。朝の湿り気を含んだ内野の土は、指でつまむとひんやりして、すぐに形を崩した。ベンチからはスパイクの音、金属バットがフェンスに当たる甲高い響き。呼吸が合っていないウォーミングアップの掛け声に、緊張のざわめきが混じる。7回制——その二文字が、ここにいる全員の時間の感覚を変えようとしていた。私は記者として、元高校球児として、その空気の重みを肺の奥まで吸い込む。季節は進み、気温は容赦なく上がっていく。夏は、毎年、命を試す。
9回という儀式に育てられた世代にとって、7回は短いのではなく、濃い。球場のスタンドの最上段で、私は肩の汗がゆっくりと背中を伝うのを感じながら、ノックの音の合間に聞こえる小さな咳に気づいた。去年、延長戦の末にエースがマウンドで崩れた映像が脳裏をよぎる。グラブで顔を覆った捕手。氷水のバケツ。手の甲をつねって現実に戻る。最悪の瞬間は、いつも突然やってくる——“あれは仕方なかった”という言い訳が通用しない温度の中で。
新しい提案が、ニュースで流れた。高校野球を7イニング制に——導入の目標は2028年のセンバツ。報告書は淡々とした文言で「選手の健康と安全」を主語にした。私は報告書の文字を読み、現場の土を踏み、夜は保護者会で意見を聞いた。賛否が飛び交う。伝統を守りたい声。子どもを守りたい声。どちらもまっすぐで、嘘がない。両立はできるのか。できないなら、どちらを選ぶのか——選び方そのものが、その街の、学校の、チームの品格を映す。
ベンチでシートノックを見つめる三年生の背中は、薄く震えていた。彼にはもう、数えるほどの試合しか残されていない。7回になることで、打席が一つ減るかもしれない。最後の守備機会が早く終わるかもしれない。だが彼は言う。「だったら最初から全開で行くだけです」。唇は乾き、掌は湿っている。短くなるのは時間ではない。迷いだ。7回制は、決める勇気を前に少し強く押してくる。攻めるか、守るか。温存か、全力か。迷っていると、時間だけが先に行く。
私は一つの“最悪”を忘れられない。炎天下の午後、三塁側ベンチ前で、キャプテンが膝から崩れ落ちた。肩に触れると、火のように熱かった。救急車のサイレンが遠くで揺れる。ベンチに残されたタオルからは、清涼スプレーの匂いが酸っぱく立ち上る。あの日の空は、やけに青かった。7回制は、その記憶に対する答えの一つだ。倒れないために、倒れる前に終わらせる勇気。勝利のために、健康を守る作戦。勝ちたいからこそ、守る——それは逃げではない。考え抜いた“攻め”だ。
ボールがミットに収まる鈍い音が、心臓の鼓動と重なる。彼らの呼吸が、観客席のこちらまで届く。汗の塩が唇に残り、陽炎が外野の芝を揺らす。7回制という「変化」は、個人の挑戦を早め、チームの絆を深くする。プレーの一つひとつに、迷いを許さない密度が生まれる。挫折が早く訪れるかもしれない。でも、早く立ち上がるチャンスにもなる。私は思う。変わることは、誰かを置き去りにするためじゃない。みんなで生き残るための、合図だ。ここから先は、覚悟の物語になる。















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