六百万の静寂、一本の菓子棒──リコールの影に、感性の光を

現代における芸術教育の意味

感性教育は、危機管理の反対語ではない。むしろ、最悪の未来を未然に選びなおすための視覚・聴覚の鍛錬だ。原材料表示を詩として読む、製造ラインのリズムを音楽として聴く、倉庫の温度を絵の「冷色」と「暖色」に翻訳する。こうした練習は、リコールの判断に必要な「沸点」の感覚を育てる。科学は温度計を持つが、文化は体温計を持つ。体温計は、集団の微熱を見逃さない。

見えないものを信じるのではない。見えるはずの徴を見落とさぬために、目を整えるのだ。

— 感性教育の覚え書き

教室で私は、5→7→5の呼吸で商品ラベルを音読するワークをする。原材料名、アレルゲン情報、ロット番号。情報が音になると、抜けや過剰が和音の濁りとして浮かび上がる。学生は驚く。文字の列から温度が立つ、と。恐怖訴求が独り歩きするとき、語りは低音だけを強め、陰影は単調になる。だから、和音全体の調律が必要だ。危険の可能性、回収の理由、判断の時期、そして「安全性問題なし」という言葉の置き場。低音に対位する中音と高音を、教育は用意しておきたい。

制度を詩へ、詩を制度へ

制度は硬く、詩はやわらかい。そのあいだを行き来する橋が、リテラシーだ。消費者庁のガイドライン、事業者の自主基準、行政への報告の手順。これらを詩的に読み替えることで、現場の手つきは洗練される。例えば「迅速」は色でいえば朱、「透明性」は硝子の薄さ、「再発防止」は織物の緯糸。小売業の研修に、こうした翻訳を持ち込むと、マニュアルは暗記物ではなく、身体の記憶に変わる。最悪の結果を避けるのは、つまり最高の所作を日常に宿すことでもある。

仮図版:棚の余白は、過不足のセンサーとして機能する──展示の視点から。

余白は、恐れを受け止める器であり、判断のための耳である。

感性教育メモ

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。