
景気は回復ムード、賃上げは置き去り──観光業が直面する崖
解説・執筆:宇野 健介(政治風刺解説者 / 元週刊誌記者)
- 表の事実:物価上昇は緩やか、景気回復基調。賃上げが鍵。
- 裏の力学:賃上げ先送りなら内需冷え込み、観光は人手不足で減速。
- 宇野の視点:「ぬるいインフレ」と「遅い賃上げ」の共犯関係。
景気は回復基調だそうだ。よし、まずは持ち上げよう。「日本、いよいよ復活の足音」——なんて見出しは投資家も官庁も大好物。次に調子に乗せる。賃上げが広がれば消費が伸び、国内旅行も活況、インバウンドは円安で笑顔、宿は満室、空港は長蛇の列。ここで最後に突き落とす。賃上げが遅れれば、観光は人手も品質も摩耗し、「高くて混むのに、体験は薄い」という最悪の三重苦へ。そう、笑っていられるのは今のうちだ。
目次
政治の笑劇場としてのニュース概観
NHKの報道(出典:「物価上昇緩やかで景気回復基調続く見方広がる 賃上げがカギに」)は、足元の物価上昇が鈍化し、景気は回復基調というコンセンサスを伝える。教科書的には喜ばしい。金融政策の副作用を和らげつつ、賃上げで実質所得を回復させる「軟着陸」の絵だ。
しかし、政治はいつだって「見取り図は美しいが、現場は足元がぬかるむ」。賃上げが遅れれば実質賃金の痛みは尾を引き、サービス価格の値上げに慎重な観光業は、人件費・エネルギー・食材の三重増コストに挟まれる。人手不足を深刻化させ、稼ぎ時の品質が落ちる。これでは回復のプラカードを掲げる前に、足場の土台が沈む。
「ぬるいインフレ」と「遅い賃上げ」は、静かに観光の体力を奪う共犯関係だ。
なぜ観光で語るのか。答えは簡単だ。観光は「労働」が主役の産業で、価格転嫁が難しく、景気の体感速度が速い。政策の微調整が現場で増幅され、笑顔と不満が同時多発する。政治の鏡として、これほど正直な産業はない。
事実と背景
「緩やかな物価上昇」と「賃上げ」 とは?
「緩やかな物価上昇」とは、総務省の消費者物価指数(CPI)が急騰せず、安定的な2%前後(報道上のレンジ)で推移する状態を指すことが多い。金融政策の世界では、これが賃上げや投資を後押しし、持続可能な成長の仲立ちになるとされる。NHKの記事もこうした一般的見立てを踏襲している。
一方で「賃上げがカギ」という表現は、春闘の賃上げ率が賃金の裾野に広がるか、非正規や地方へ波及するか、そして実質賃金(名目賃金-物価上昇)を反転させるかにかかる。連合の集計では2024年の賃上げは5%超(出典:連合 公表資料、暫定集計)という報道があるが、それが宿泊・飲食や観光関連の中小事業者まで等しく届いているかは別問題だ。
観光は人件費の比率が高いサービス産業。賃上げを実現しつつ、価格転嫁の「説得」を市場に行う必要がある。しかし、値上げに神経質な消費者心理と、インバウンドの価格弾力性、プラットフォーム手数料の上昇、エネルギーコストの戻りなど、四方からの押し合いで身動きが取りづらい。
メディアが報じない舞台裏(表の挿入)
| 局面 | 観光業の現場 | 政策・市場の力学 | リスク(恐怖訴求) |
|---|---|---|---|
| 物価上昇が緩やか | 一見、仕入れ安定。だが光熱費・食材は高止まり。 | エネルギー・為替の変動が尾を引く。 | 利益幅が戻らず賃上げ原資不足。 |
| 賃上げが進む | 離職率↓、採用競争に勝てる。 | 人件費が固定費化、価格転嫁が必須に。 | 値上げの遅れが資金繰りを圧迫。 |
| 景気回復基調 | 需要は戻る、繁忙期は満室。 | プラットフォーム依存度↑、手数料負担↑。 | 「忙しいのに儲からない」現象の固定化。 |
インバウンドは救世主にも見えるが、為替と地政学に脆弱だ。日本政府観光局(JNTO)によれば、2023年の訪日外客数は約2,500万人(出典:JNTO 統計)。回復は鮮明だが、2024年のイベント集中や為替の行方次第で需給が急変する局面がある。メディアは「にぎわい」を映すが、現場は「採用」「教育」「離職防止」に追われている。
キラーフレーズ:「満室は祝杯、粗利はため息」。売上高の花火の下で、利益のロウソクは短く燃えている。

現場・世論の視点:観光業への影響とSNSの反応
宿泊・飲食・交通——観光のサプライチェーンは「人」に始まり「人」に終わる。SNSでは「値上げしていいからサービスの質を保ってほしい」という投稿と、「高すぎて国内旅行の頻度を減らした」という声が隣り合わせに並ぶ。矛盾ではない。可処分所得が伸び悩む中で、消費者の要求水準だけがインフルエンスによって上がっているのだ。
現場の管理職に聞けば、「時給は上げた。しかし教育の時間が取れず、現場のストレスは増えた」という嘆きが出る。派遣頼みのフロントはコミュニケーションの熟練に時間がかかる。予約は多言語、決済はマルチ、カスタマーは“今すぐ”。人を増やすだけでは解けない立体パズルだ。
一方で、消費者側の声はこうだ。「どこも満室なのに朝食の補充が追いついていない」「チェックインに30分」「価格は上がったのに体験は横ばい」。これは現場を責めるべき話ではない。賃上げと価格設計、業務設計の再構築が同時並行で進められていない構造が問題だ。つまり、賃上げは「コスト」ではなく「品質の投資」だと社会が認識を更新できるかどうか。
この構図は、以前取り上げた記事『“安さの呪い”がサービスを壊すとき』の事例と全く同じだ。値上げを悪と見なす空気が、結局は自分の体験価値を削る。観光は、その鏡である。
| 比較軸 | 価格据え置き | 適正値上げ+賃上げ | 過度な値上げ |
|---|---|---|---|
| 人材定着 | 低い(離職率↑) | 高い(育成投資→技能蓄積) | 中(需要減で採用抑制) |
| 顧客満足 | 短期的に維持/中期的に低下 | 安定(体験価値↑) | 低下(価格に見合わず) |
| 財務健全性 | 悪化(原資不足) | 改善(粗利確保) | 不安定(稼働率↓) |
いま避けたい最悪の結果は明確だ。「高い・混む・質が落ちる」の常態化である。これが続くと、国内は「旅行控え」、海外は「別の国へ」。観光の名が泣く。
【Q&A】深層解説
Q. なぜ賃上げが観光の“安全保障”なのか?
A. 人が離れたサービスは、すぐには戻らないからだ。観光は熟練の「見えない技術」で回っている。チェックインの一言、朝食の補充のタイミング、清掃の段取り——マニュアル化できる部分は一部で、多くは経験値だ。賃上げは「人を引き留める費用」ではなく、「技能を社会に残す投資」だという見方もできる。
Q. 値上げは顧客離れを招かないか?
A. 不透明な値上げは離反を招くが、透明な値上げは支持される。価格の根拠(人件費・仕入れ・品質維持)を簡潔に示し、ピークとオフピークの「ダイナミックプライシング」を公正に運用すれば、需要と供給のバランスは改善する。むしろ、説明なき値上げと、値下げ頼みの集客こそが信用を削る。
Q. インバウンドに依存しても大丈夫?
A. 依存は戦略ではなく賭けに近い構造だ。為替・地政学・航空席供給の3変数で需給が乱高下する。JNTOの統計が示すとおり訪日客は戻ったが、国・地域別の回復度合いは非対称で、災害・感染症・国際情勢で急変する。国内需要の土台(家計の実質所得)を軽視すべきではない。
Q. 中小の観光事業者は何から着手すべき?
A. 「価格・人・業務」を同時にミニマムで動かす。具体的には、1)ピーク料金の適正化とオフピークの付加価値化、2)賃上げと同時に募集文面と教育設計を更新、3)15分・30分単位の業務可視化で「止まる・詰まる」を潰す。小さな勝ちを三つ積むと、資金繰りの酸素が増える。
| ミニマム実行プラン | 具体策 | 期待効果 |
|---|---|---|
| 価格 | ピーク5〜10%見直し、オフピーク特典強化 | 粗利確保、稼働平準化 |
| 人 | 時給+募集文面刷新、入社初週の教育カリキュラム固定化 | 応募増、定着率↑ |
| 業務 | チェックイン動線の分離、前払い・セルフ導入 | 待ち時間↓、クレーム↓ |
本質の分析:権力構造の闇と光
賃上げが「カギ」だと繰り返す政治。ここには三つの力学がある。第一に政府は「成長の果実の分配」を掲げるが、賃上げの原資は企業のキャッシュフローに依存する。補助金や税制は潤滑油に過ぎない。第二に日銀は物価と賃金の好循環を待つが、観光のような非上場・中小中心のセクターは金融政策の波が届きにくい。第三に大手プラットフォームは需給の上澄みを取り、地域の中小に負担が寄る。
闇はこうだ。誰も「値上げ」という政治的に不人気な言葉を持ちたがらない。だから「生産性向上」という魔法の杖を振るが、短期で効くのは一部の自動化だけ。観光の生産性は「人」に宿る。光はこうだ。賃上げと価格転嫁を、公正・透明・段階的にやれば、顧客の理解は得られる。政治がメッセージを変え、メディアが“適正価格”の言説を支え、事業者が説明を尽くす——三位一体が要る。
ここで一句ならぬ一行で締めよう。「安さに酔えば、体験は酔い覚めに薄くなる」。値段は物語だ。賃上げは、その物語に血を通わせる。
| シナリオ | 政策・市場の前提 | 観光業の結果 | 避けたい最悪 |
|---|---|---|---|
| 軟着陸(望ましい) | 物価2%前後、賃上げ波及、為替安定 | 価格転嫁成立、人材定着、体験価値↑ | − |
| 賃上げ遅延(現実的) | 名目賃金↑だが実質横ばい | 稼働は高いが粗利低迷、離職↑ | 高い・混む・質が落ちる |
| コスト再燃(警戒) | エネルギー・為替が再び悪化 | 値上げ難航、資金繰り圧迫 | 休業・撤退、地域ブランド劣化 |
データの補助線も挙げておく。消費者物価は総務省統計、賃上げは連合、訪日外客はJNTO、雇用の逼迫は有効求人倍率(厚労省)で確認できる。ここで数字を積み上げるより重要なのは、数値が示唆する「順序」だ。賃上げ→価格設計→業務再設計——この順序を逆にすると、現場が潰れる。
総括:最後の一行まで皮肉を効かせる
景気は微笑む。確かにそう見える。だが、「微笑み返し」をしない顧客は、やがて別の国に旅立つ。賃上げは、観光の接客に「もう一呼吸」を与える装置だ。安価な労働で笑顔を強いる時代は終わった。値段には意味がある。賃金には誇りがある。
政治は「賃上げがカギ」と言う。ならばドアを開けよう。鍵穴に合う鍵は「適正価格」とセットでしか回らない。恐怖を一行でまとめればこうだ——鍵を回し損ねれば、扉の向こうで待つのは“観光の崖”。崖の下には、空洞化した商店街と、疲弊した現場の沈黙が広がる。
回避策は難しくない。小さく正しく、早く始めるだけだ。価格に物語を、賃金に誇りを、体験に厚みを。景気の「微笑み」を、本物の「笑顔」に変えるのは私たちの選択だ。
参考・出典:対象ニュース・関連資料/総務省「消費者物価指数」/日本政府観光局(JNTO)統計/連合「春季生活闘争」公表資料/厚生労働省「一般職業紹介状況」。
https://news-everyday.net/(文・宇野 健介)















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