
発酵ブームの陰で原料リスク──農水産×中小企業社長の守り方

世界が“発酵”の香りで満ちている今こそ、日本の蔵と浜に冷たい風が吹く前に、中小企業の社長は何を守り、どこを変えるべきかを考える必要があります。世界市場の追い風と供給リスクのはざまで揺れる心に寄り添いながら、農業・水産業と発酵食品ビジネスの現場をつなぐ「経営の視点」を、物語るように整理していきます。
【目次】
- 導入:心の風景と社会の断片
- 人の心に宿る揺らぎ
- 社会と文化の狭間で
- 家族という鏡
- 未来へのまなざし
- 総括
- 付録:参考・出典・謝辞
導入:心の風景と社会の断片

雨の粒が軒の木にやさしく跳ねて、薄い光を散らしていきます。朝の台所に立つと、味噌の甕からゆっくりと立ち上る香りが、まだ眠たい記憶の戸を静かにノックします。湯気の向こうで湯飲みの縁が白く曇り、遠くのラジオが小さな声でニュースを伝えています。世界のどこかで、私たちが幼いころから知っている味が、別の言語の舌に届いていると聞くと、胸の奥がふっと温かくなります。窓を開けると、空の色は薄い鈍色で、雲の奥から柔らかな日差しが覗いています。渋紙のように静かな空気の中で、机の上の帳面が乾いた音を立てます。
浜では、昨日の風が残した塩の匂いが、まだ足元にまとわりついています。波の白い線が規則正しく寄せては返し、遠くでエンジンの低い響きが起き上がります。倉の方角から、麹室の温度を確かめる足音が聴こえたような気がします。光は薄く、しかしきっぱりと、樽の木目のひとつひとつを撫でていきます。手のひらに残る粗い感触が、祖父母の声のかすれを呼び戻します。「焦らず、じっと待て」と、かつて誰かがそう言った記憶がよみがえります。待つことは、発酵の言語であり、家族の時間でもあったのだと感じます。
ラジオの音量がわずかに上がります。アナウンサーが「日本の“発酵食品”が世界でブームになっています」と伝えます。うれしさの手前で、心の中で何かがずれたような音がします。喜びは音楽のように跳ねますが、同じ拍で不安が裏側からそっと寄ってきます。棚の在庫表を見返すと、小さな数字の列が、冬の路地のように心細く見えてきます。「自分の会社も、同じような状況になるかもしれない」と思う社長も多いのではないでしょうか。手に入るはずのものが、ある朝ふいに遠のく気配ほど、部屋の温度を一度下げるものはありません。
電話口の向こうで、Kさんの声は低く穏やかですが、その奥に緊張がにじんでいます。「大豆の手当てが、次の仕込み分まではっきりしなくて」と語ります。その瞬間、曇りガラス越しの光がすこし痩せたように感じられます。得られるはずの利益の計算よりも、「明日の材料が手に入らないかもしれない」という不安が、私たちの胸の真ん中を占めはじめます。損失を嫌う気持ちが、味覚よりも先に舌を渇かせることがあります。心は、たっぷりの塩水にひたした海藻のように、静かに縮み、静かに膨らみます。
「やれるうちに、やっておこう」。その声は、遠い日曜日の午後、父が台所で言った一言に少し似ています。雨の斜めの線が少し細くなり、光が別の入口から差し込んできます。「損失回避」という耳慣れない言葉も、経営の現場では、家族の会話の中に静かに溶け込んでいきます。私たちはいつも、何かを守ろうとして立ち止まり、何かを守ろうとして動き出します。鍋のふちで湯が小さく歌い、窓辺の鉢の土がひとしずくを飲み込みます。今日の帳面には、「待つ」と「備える」を並べて書き込んでおきたいと感じます。
夕方になれば、潮の匂いは濃くなり、倉の木は昼より深い色を帯びていきます。過去の仕込みの失敗は傷跡のように光を弾き、成功の記憶はほの温かい湯たんぽのように足元を温めます。明日への心配は、夜になるほど形を変えます。見えないものが大きくなる代わりに、見えるものに手を伸ばしやすくなります。「失いたくない」と願うことは、ときに私たちに不器用な強さを与えてくれるのだと感じます。海と蔵が、小さな声でその思いに応えてくれているようにも思えます。















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