岐阜に降る光、移住者の揺らぎから学ぶ「地方中小企業の人材・組織戦略」

高知から岐阜へ再移住した一人の物語は、偶然と呼ぶにはあまりに必然めいた出来事が連なった軌跡です。この再移住のプロセスは、個人の心と地域の組織、そして家族の時間をほどきながら結び直し、中小企業の経営と地方創生の現場に小さな光を届けています。本稿では、その光をたどりながら、まちづくりの現場で生まれる「想像もしなかった今」を、心理と文化の視点から読み解いていきます。

【目次】

  • 導入:心の風景と社会の断片
  • 人の心に宿る揺らぎ
  • 社会と文化の狭間で
  • 家族という鏡
  • 未来へのまなざし
  • 総括
  • 付録:参考・出典・謝辞

導入:心の風景と社会の断片

朝の雨は、岐阜の谷にゆっくりと降りてきます。山の稜線を白く薄めながら、屋根に落ちる粒が時間の拍を刻みます。光はまだ雲の奥に隠れていて、川面に映る色は銀のように冷たく感じます。ときどき、名もない鳥の声が遠くで響き、その気配だけがこちらに届きます。私は、その音の輪郭をなぞるように歩きます。舗装の継ぎ目に雨がたまり、小さな湖がいくつも生まれます。そこに記憶が映ってはゆらぎ、指先ほどの風でほどけていきます。まちは早起きの市場の匂いをまとい、まだ開かない店先のシャッターが、昨夜の会話の残り火をそっと抱いているように見えます。

「光が傘の端からこぼれる」そんな表現が似合う朝です。知らない土地に居を定め、知らない人の名前を覚え、知らない坂を自転車で上がった日の、胸の奥に生まれる薄い温度を、私は思い出します。Kさんはこう話してくれました。「ここで暮らすなんて、想像もしなかったです」と。高知で一度根を張ったのに、句読点のように、ふと岐阜に立ち止まったのだと語ります。彼女の声は、行間に余白を残す話し方で、雨音に混じって柔らかく響きました。私はうなずきながら、傘の骨に触れて、金属の冷たさで自分の位置を確かめました。こんな朝は、自分の輪郭が世界の湿度に溶けていくように感じます。

心の中で、何かがずれた音がしたように感じることがあります。それは大きな破裂ではなく、見えないねじが一つ、静かに緩んだような感触です。転職でも別れでもない、もっと細い継ぎ目の変化です。たとえば「いつも通り」の靴紐がほどけやすくなる、たったそれだけの違和感です。「私もそうだ」とつぶやく人もいるかもしれません。生活の手触りが、ほんの少し遠のくときがあります。起きる時間は変わらず、カレンダーも埋まっているのに、冷蔵庫の光がいつもより青く見える日があります。部屋の温度が1度下がった気がして、扉を開ける音が、すこし重く響く朝があります。そんな朝に、人は移動を考えます。地図上の距離というより、感情の湿度の居場所を探すように移動を考えるのだと思います。

きっかけは偶然の出合いだったとKさんは笑います。市場の隅で、ふと話しかけられた名前のない会話。そこから細い糸が伸びて、岐阜の企業の工場見学に結ばれ、さらに別の糸が地域の祭りの裏方へとつながっていきました。糸は絡まりそうでいて、手に取るとふしぎなほど滑らかだったといいます。心は糸車のように回り、ほどけながら、また別の形へ巻き取られていきます。私は、その回転に耳を澄まします。小さく、規則正しい音がしているように感じます。「ここなら、私の時間が呼吸できる」と誰かが言った気がして、私は顔を上げました。雨が一段白くなり、光が窓の縁で跳ねていました。

心理の核心は、しばしば、気配の名前をつけることの難しさにあります。寂しさと言えば単純に過ぎ、退屈と言えば軽くなり、違和感と言えば曖昧になります。だから人は、環境の変化に寄せて心を語ります。川沿いの風の匂いが変わったとか、電車の遅延が多くなったとか、コーヒーの味に何かが足りない、といった形です。Kさんは、高知の海の水平線を指でなぞる癖があったと言います。ここでは、山の稜線を目で追う癖ができたそうです。線の種類が変わるだけで、呼吸のリズムが変わることがあります。心の針は、環境の磁場に引かれて、ほとんど気づかれないうちに、すこしずつ角度を変えていきます。

やがて雨はやみ、光が町を洗いました。声が増えて、記憶の棚から古い瓶を取り出す音がしたように感じます。澄んだ空気の中で、笑い声はガラスのように透き通り、触れると割れそうで、でも割れません。私は、岐阜という場所の時間の厚みに触れていると感じます。祭りの太鼓が眠っている倉庫、長く使われて黒く光る作業台、家族写真の背後にある山の影。ここで起きたこと、これから起きること、その間に立つ人たちの姿。私は思います。「私もそうかもしれない」と。想像もしなかった今が、私たちの手の中で、確かな温度を持ち始めています。それは遠くから運ばれてきた灯りではなく、この土地の湿度に馴染んでいく火のようなものだと感じます。

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