大たまごっち展に学ぶ「体験で売る」5つの設計——体験がない会社は価格でしか選ばれなくなる

文・構成:長井 理沙(ストーリーテラー心理文化解説者)

【30秒で触れる】心の風景とニュースの核心

  • Context(背景):成熟市場で「体験価値」が競争軸となり、玩具が世代横断の共通言語へ
  • Emotion(心理):なくしたくない記憶と絆を守るため、私たちは小さな存在を抱きしめ直す
  • Light(視点):体験に「別れ」を組み込む設計が、価格では買えない物語を生む

雨の粒が窓を打つたび、古い電子音が胸の奥で鳴った。あの、起こして、ごはん、あそぶ——流れるドットの呼び声。掌の中の小さな命に、こちらの生活のリズムを合わせていた日々があった。忘れたつもりで、忘れられない音。

六本木のミュージアムに足を踏み入れたとき、空気がわずかに温かい気がした。展示の最初にある「窓の部屋」では、たまごっちの視点で外を見る。光の粒が遠く、誰かを待つようにきらめいている。視線の低さが、守られることへの記憶を呼び戻す。

温泉の湯気が立ちのぼる。くちぱっちの隣で、ふわりと笑う人がいた。湯船の香りに混じる、甘いプラスチックの匂い。見知らぬ人たちの頬が、同じ温度を宿している。世代をまたぐ遊びは、思い出の温泉のように体温を分けあう。

けれど、展示の一角に「お墓」があった。壁いっぱいに刻まれた死因の文字。置き去り、電池切れ、忙しさ、忘れたままの一夜。あのときの後悔、冷たい金属の背中を撫でながら「ごめんね」と呟いた声が、遠い廊下から戻ってくる。

「心当たりがある」と笑いながら、目を潤ませる人がいる。失うことの痛みは、玩具にも宿る。いや、玩具だからこそ、安心して向き合える別れがある。私たちが日常に押しやる喪失の練習を、掌の中の彼らが引き受けてくれていたとしたら。

この冬、誕生から三十年を迎えるたまごっちは、第四次の波を迎えている。単なる懐古ではなく、体験そのものが価値になる時代の鏡として。今日の話は、その波の意味と、体験を設計することで失われないものがある、という希望の話でもある。

目次

心の奥で鳴った音(ニュースとの出会い)

東京・六本木の会場で開かれている「大たまごっち展」は、ひとつの体験装置として驚くほど誠実だった。入口の「窓の部屋」で私たちは視点を預ける。小さな存在の高さから世界を見直すと、ふだん見過ごした「待っている時間」が、こんなにも長かったのかと胸に刺さる。

展示には、キャラクターと同じ空気を吸うための工夫がある。温泉が好きなキャラクターの横には湯気が立ち、その湿度が記憶を溶かす。グッズの購入列は、単なる消費の線ではなく「物語を持ち帰る列」に見えた。彼らと同じものを親子で手にする姿は、時を超えるための儀式のようだ。

「子どものころと同じものを、今は自分の子と一緒に遊べる。不思議だけれど、すごく嬉しい」

とりわけ「お墓」のコーナーに、人は足を止める。壁いっぱいに埋め尽くされた「別れの理由」を見て、無数の頷きが生まれる。私もまた、胸のどこかで覚えている。電池が切れていた朝の、冷たさと静けさ。何度も言えなかった「ごめん」の重み。そして、その重みこそが私を人に優しくする礎になっていること。

「忘れていた痛みが、文字になって返ってきた。恥ずかしさと、懐かしさと、救い」

展示には、私たち「飼い主」を見守る部屋も用意されていた。育てるとは、見られている感覚とともにある行為だ。昔は「母に預けて学校へ行った」という来場者もいたという今、製品にはベビーシッター機能が生まれている。見守りの社会的代替を、テクノロジーが引き受けはじめた。

第四次のブームは、単に昔の再演ではない。体験の作り手が、別れの痛みまで含めて「丁寧に扱っている」ことが、世代をつなげているのだと思う。「体験がない会社は、価格でしか選ばれなくなる」。それは脅しではない。体験は、私たちの心に「失わない理由」をつくるからだ。

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